規則正しいビートの上で電子音がうねっている。男が一人、ワープロに向かっている。もう一人が入ってくる。
― 何やってるんですか。
* わかるでしょ、作文してるの。
― 何の。
* 音楽の。
― はあ。で、今かかってるテクノは。
* デリック・メイのベストだよ。
― はあ。でもテクノって家で聴くものじゃないと思いますけど。クラブに行ったこともない人が、こんなステレオで聴いてて面白いですか?
* うるさいなあ。そういううるさい人を批判してんのよ。
― え?
* どこで、どのように、また何のために聴くか、を特定するべきではない。好きなように聴くこと! つまり聴く側の創意工夫が、音楽体験をより豊かにする・・・・・・ってね。
― またわかりにくいことを。
* いや、例えば、この雑誌のここ読んでみてよ。
― ええと、「・・・・・・ここ何年かの悪しき習慣として多くのレコーディング現場で見られるのが、最終的にラジカセでモニターする光景だ。CDユーザーの多くがラジカセで聴いているので、そういった人に合わせるためなのだろうが、もう言語道断である。一時間に四万円以上するプロ用のレコーディング・スタジオを使って、音の仕上げがラジカセじゃあ、笑うに笑えない」はあ、ラジカセで音づくりしてるなんてひどい話。
* そうかな。ぼくはむしろ、音楽評論家って完全に音楽産業の下請けなんだなって、改めて思ったな。全然信用できん。
― 確かにこの文章は「高いオーディオ機器のすすめ」かもしれません。でも音楽産業の下請けと言うのは。「いい音」で聴くことは大切ですから。
* そう?
― それを疑いますか?
* いやまあ、疑うっていうか。
― しょぼいラジカセでしか聴いていないと、聴く力は衰えますよ間違いなく。細かいニュアンスを聴けなくなる。
* そういえば音楽やってたよね。経験者は語る。
― いやあラジカセでつくってるやつも多いんですけどね。プロで音楽やってる知り合いも言ってました。こっちはいい音を頑張ってつくってるのに、よくわかりもしないリスナーに――
* ひどい言い方。
― ま、言い過ぎではあるけども、ともかくリスナーにひどい音源で聴かれるのはいやだ、ましてやグライコなんかで勝手にいじられるのは悲しいって。つくる側としては、つくったとおりの音を届けたいのは、そりゃそうでしょう。
* オレのラーメンには胡椒入れずに食えって?
― でもただの個人的要望じゃないですよ。とにかく、好きなように聴けばいいというのは聴く側だけのことしか考えてない立場じゃないですか。
* ふうん、聴く側だけの立場、ね・・・・・・。面白い。先ず、その「いい音」って何だろね。きれいな音?
― 我々ノイズミュージシャンの人格否定ですか。
* 人格ねぇ。いやごめん。ジョン・ゾーンでもかける?
ジョン・ゾーン『フィルム・ワークス』。
弦をかきむしるギター。そのうねりを突き上げるようにドラムが連打される。
* 君らにとってはこの爆音が・・・・・・
― いーい音。じゃないでしょうか。
* じゃ、いい音ってのは人の好みによるだけと。
― ひどすぎる。うーん、どうなんでしょう。ひとつには、さっき言ったように耳の能力を鍛えるような音が「いい音」だと言えるんじゃないですか。
* 耳能力開発ギプス。
― 却下。
* こういうノイズとか。
― ノイズは耳鍛えますよー! 微妙なニュアンスいっぱいですから(笑)。えーと、だから普通、複雑なニュアンスを多く含んだ音が「いい音」と言われるんじゃないですか。音の複雑な味わいを知ってると、単純な音にも対応できるわけで。その意味でシンセのストリングスよりも本物の方が優れている。シンセは「本物のストリングス」っていう目標に沿ってるだけだから余計な音が含まれていないけど、本物は分析しつくせない複雑微妙な音が組み合わされてあの音になっている。
* 味の素と天然昆布だしか。成程。でも、本物の楽器の音そのものに近い音が「いい音」というのは、おかしい。
― どうして。
* 元になる音が無い場合、ダブとかさ、スタジオのつまみいじってつくられたオリジナルなしの音の場合はどう?
― ずるいけど例外。
* 無理だよ。クラシック・ピアノにしたって、コンサートでCDと同じ音は出せないっていうんだよ、少なくともグールド以降は。何テイクも録って、いいとこ集めて、さらに電気的に処理してCDにするんだから。グールド聴こうよ。
グレン・グールドのバッハ『フーガの技法』。
どこまでもクリアな音の立ち上がり、一音ずつを確かめるような弾き方。
* で、ポップスなんかもうみんなそうでしょ。
― 確かに声をサンプリングして、本人に歌えない音程で「歌」ったりしてね。
* そうなると、レコードをつくる側も、どんな音を原音、つまりモデルにすればいいのかわからなくなる。結局、聴く側の持っている音のイメージに沿うしかなくなる。ピアノらしいきらきらした音、とかさ。で、そのイメージはテレビとかラジオからつくられてる。
― 堂々巡りですか。
* だからさ、「いい音」を抽象的に定義しよう、てのがそもそも無理だと思うわけ。
― はあ・・・・・・そうですね、じゃあ「いい音」イコール「ミュージシャンの出したい音」と、これはどうですか。
* そう、あえて、あえて「いい音」を定義しようとすると、それしかない。そうすると、さっきの評論家の批判は無効でしょ。ラジカセでモニターするってのは、届けたい音ができるだけ確実に届くようにとの配慮なんだから、誉められこそすれ、批判される筋合いはない。「いい音」の客観的基準はないんだから。
― ないというのはちょっと。
* いや勿論、ラジカセの音では聴かれたくない、もっと細かく再現できるシステムで聴いてほしい、っていう希望はいいんだけどさ。でも、ラジカセの音は「悪い音」だと客観的に決めるのは無理でしょう。
― はあ。評論家は自分の好みじゃない音に怒ってるだけになりますね。つまり、「いい音」というのは「ミュージシャンの届けたい音」。だから「いい音」で聴くべきだ。すっきりしたいい結論。
* ・・・・・・ところがさ。
― は。
* 今までつきあってきてナンだけど、その結論、全然よくないんだよね。
― どこが?
* そもそも、「いい音」を定義づけたり、それを求める必要はないっていうのが僕の立場なの。
― 「いい音」じゃなくていいんですか? ははあ、ミュージシャンの意図を気にかけることはないっていうんでしょう。それが「好きなように聴く」だとか。
* そう。コルトレーンが血を吐くようにブロウしてるライヴだって、昼寝のBGMにしたっていいじゃないの、と。
― 悪夢見ますよ。いやそれはまずいでしょう。「作品」ですよ。ミュージシャンの、言ってみれば自己表現ですよ。ミュージシャンの望む音で聴かないのはまずい。さっきの例でも、そのためにラジカセでモニターしてくれてるわけで。それにもし特別な意図があるなら、それに沿って聴くのが礼儀。
* 昼寝しながら聴けとか。
― そう指示があるならいいですよ!
* まあまあ。僕は、そういううるさいものは全部無視しちゃってもいい、無視するべきだと思うんだな。
― どうして?
* だってさ、聴くのは僕なんだよ! 僕が楽しければそれでいいんだよ! 別にどんな曲も寝て聴くって言ってるわけじゃないし。
― しかしそんな勝手な・・・・・・
* この発想が一番進んでるのはヒップホップ。あのやり方見なよ。レコードの好きなとこだけ取ってきて、ずーっと回して。ベースだけとかドラムとか。あれ、元ネタのミュージシャンの意図なんか無視してるのは当たり前。一番面白い音楽のやり方じゃない?
― だから、ザ・バンドはベースがブイブイいってるからいい、なんて無茶なこと言う人が出てくるんです。
* 誰。
― 小沢健二ですけど。そんなの無茶苦茶じゃないですか? ベースがブイブイいうのは他にも死ぬほどあるでしょう。あのベースと、ロバートソンのギターと、マニュエルとかの声と、それからあの歌詞が一つになってザ・バンドなんですよ。一部分だけ取り出してオッケーよ、なんて、簡単に言えませんよ。
* そう? まさにそういうの理想。好きなように聴く。ミュージシャンとリスナーとの間の壁はぶっこわれたほうがいい。壁の崩壊が恐いなんて、ヴァレリーじゃないんだから。
― いや、リスナーもどんどん音楽をつくるほうにまわるという意味なら、勿論壁崩壊に賛成ですよ。僕だってそうですし。でもミュージシャンの意図を壊すことが生産的だとは思えない。
* 生産的だと思うよ。先ず、音楽を聴くことの目的が変わるね。
― いかように。
* 作者の意図は唯一絶対で、その「意図」の理解が音楽を聴く目的だっていう考えあるけど、それがどうしても「作品」にはつきまとってたわけ。一つの正解を求めよう、ていう姿勢ね。
― そういう聴き方、まずいでしょうか。
* 音楽を聴くことが、「作品」の「意図」を理解することに還元されるかどうか? かなり怪しい。もっとシンプルに、音そのものを楽しむことがまず必要だと思うわけ。
― 勿論そうですが、それはもうクリアされてるでしょう。
* いや、全然そうでもないよ。音楽よりもミュージシャンの意図とか思想、人柄なんかにばっかり興味が集まってるじゃない?
― そうですかね。一部でしょう。
* あと、ミュージシャンとリスナーとを、問題だす人と理解する人とにバッチリ分けるってのも差別的で(笑)、リスナーの間にも正解がわかる人とそうでない人との差別も生むでしょ。こんなヒエラルキーの重みを感じながらの音楽体験、面白いだろうか? 現代音楽を必死になって「理解」しようとするのも美しいかもしらんけど、悲しくもあるね。
― 確かに。でもそれはある程度はしかたないんじゃないですか。作品は作者の自己表現ですから。
* それは十九世紀のロマン派の思想だ。
― いけませんか。
* あのさぁ、自分だけのオリジナリティなんて、あるの? 自分を表現することって、そんなに重要なのかな? むしろ他人の要素の集まりとして自己も自己表現も成立しているというべきじゃない?
― 人間的存在とは、社会的諸関係の総体である。一年B組、カール・マルクス。
* 若いのに偉いよねえ。真理だ。それから、大衆に手の届かない「作品」ってカテゴリーも歴史的なもので。これ、ヨーロッパのコンサートの形から生まれてきた概念らしいのね。知ってた?
― いや、それは。
* スーパー音楽家スターが、コンサートホールという非日常的空間で一回きりのすごい演奏を披露する。彼のために作曲家は新しい曲をつくる。こうして一回きりの「作品」が生まれ、消えていく。そして楽譜が出版され、アマチュアが「作品」に近づこうとして真似をする、と。この背景には、コンサートや楽譜が商売として成り立つほどに「愛好家」が増えたこと、ま、大衆化ね、がある。
― 大衆化によって、大衆の勝手な介入を許さない「作品」概念が生まれたと?
* まさに! 鋭いなぁ。別に普遍的じゃないわけ。実際、「作品」概念は無理がきてるよ。例えば、さっきのヒップホップなんか、どうみても「他なるもののアレンジメント」だ。リミックスなんて、聴いたことある曲をいかにちがうものとして聴かせるかってものだけど、聴いたことあるところとちがうところのズレが記憶を刺激したりするんだよね。あ、ピチカート聴こうよ。
― いいですね。
ピチカート・ファイブ『月面軟着陸』。
アロ〜ハ・・・・・。スキャットがばたばたしたリズムの上を回るようにはねまわり・・・・・・。
* ピチカートって、いろんな音楽のかっこいいカタチだけ引用するから評判悪いんだけど、こんなに記憶を刺激する音楽ってないよね。あ、この感じ!って。それから、最近のヒット曲も多くは「どこかで聴いたいい曲」でしょ。
― それこそ「渋谷系」とか、そうですよね。
* いや、もうほとんど。さらに言うと、
― たたみかけますね。
* そもそも音楽作品は「〈作曲技術〉と〈メディア〉に挟まれた中間領域」にすぎないんだっていう考えもある。
― はあ?
* 細川周平なんだけど、ええと・・・・・・ここ。「音素材が『音楽』という社会−文化的コードに則った一つの制度に取り込まれる過程と、その制度化された音素材=音楽が伝達され、消費される・・・・・・音楽演奏、流通の過程」、ぶっちゃけて言えば音楽の生産と消費ね。この二つ合わせて広い意味の音楽的出来事と呼ぶんだけど、「作品」はその間の部分、要するに生産と消費の重なりあった部分のことだと。
― 言いたいことがよくわかりませんが。
* 大きく見れば音楽なんて、既存の、みんなに受け入れられているコードに則ってまとめられた音素材だってこと。独創性なんて、たかが知れてる。
― はあ・・・・・・いいでしょう、「作品」という神聖なガードで作者を守るのは、それほど根拠ないと。それはいいでしょう。しかしです、それでも、譲れない部分もありますよ。
* それは。
― まず、耳はそんなに信用できるのか。坂本龍一が耳の変化ってしゃべっていたでしょう。
* ああ、三百年たったら人間の耳の感覚が変わったというやつ?
― まあそうです。三百年も昔の音楽を聴いても全然感じない、和音にジンとくるものがないという。でも逆に言えば、三百年かかって耳の感じ方はやっと変わってきたわけです。耳はすごく保守的で、慣れないものはなかなか「気持ちいい」とは聞こえないものなんですよ。現在は、テクノロジーが耳を急速に変えつつあるとは言われてますけど、それも新しい音が毎日浴びせられているせいで。
* 耳が慣れに弱いとして、どうなの。
― あなたの「好きなものを、好きなように聴けばいい」ってのは要するに耳慣れしてるものを好きになっているだけじゃないですかね。
* 悪い?
― もし、それが自主的な選択じゃなくて、好きにさせられているだけだったとしたら、問題じゃないですか。
* させられて? 誰に?
― そうですねぇ、まあ、資本に、とでも申し上げておきましょうか(笑)。
* 資本・・・・・・。話ズレてないか。
― ちょっと待ってください。後回しにしましょう。あとなんとかブームってのも、耳の保守性の証拠じゃないですかね。似た様な音ばっかり続けて売れるってのは。
* それは、確かに耳の慣れもあるだろうけど。
― もう一つ。譲れないのは、音楽家の意図を簡単に捨てちゃっていいのか、です。「作品」として観賞しないと理解できない音楽家の意図はやっぱりある。
* 例えば?
― ワーグナーの『マイスタージンガー』なんてどうです? アドルノも、サイードも、あの反ユダヤ主義やナチズムへの近さを批判するためには、外敵から神聖ドイツの芸術を守れっていうモロなうたが終幕に置かれているという事実を考えなくちゃならなかったんですよ!
* ノイズやる君が、オペラに詳しいうえにアドルノまで読んでたなんて、いや、ちょっと驚き。
― 歌詞だけじゃなく、音階の使い分けの意味や、コラールのスタイルの意味なんかもサイードは分析してたはずです。ワーグナーの意図ははっきりしてて、純ドイツ的なるものの顕揚です。こういう音楽分析は「作品」や「音楽家」を否定しちゃ不可能ですよね。
* そう、そういう聴き方も否定しないよ。そういう側面は落ちちゃうね。でも、こういう反論もあるよ。それは、果たして、音楽の分析だろうか。
― ええ?
* いや、それは音楽とナチズムとかのつながりを分析してるわけでしょ。そういうのは、やっぱり例外じゃないかな。音楽は音楽だよ。音楽と社会とは、切り離して論じることができるんじゃないか。
― うーん、出ましたね! そこ、どうやら対立点のようですよ。さっき資本って言葉に死んでましたよね。
* 致命傷。
― 僕も死にかけたんですけど、でも、考えてみると僕はそれを結構本気で言ってますね。いいですか、ちょっとまとめてみますから、おかしかったら言ってください。
* ちょっと待って。考えるときにいいやつ、高橋悠治、聴く?
高橋悠治『翳り』。
時計の音、きしみ、カエルの声などが偶然のように発生し、偶然のように消えていく。
― いいでしょうか。「作品」を絶対化・神聖化することに根拠はない。「作品」って枠を捨てることで成り立つ音楽もある。
* 枠を捨てるおかげでへんな差別やヒエラルキーから逃れられるし、純粋に音楽、というか「音」の楽しみに浸れる。
― ですが、「作品」をまるっきり捨てちゃうと、耳の保守性から逃れられないし、「作品」全体を味わうことは勿論できない。
* じゃあ、両方の聴き方を使い分ける。
― でも、まったく矛盾してるんですよ。どういう場合にどっちを採用するか決められるならともかく。
* どこが矛盾してるんだろう?
― 僕なりに言えば、「何でもあり」、耳あたりいいものを聴くだけでよしとすると耳の保守性にひっかかる。かといって、音楽家の「意図」の理解が強制されると、「正解」を得ることだけが目的になっちゃう。こういう感じじゃないですか。
* 真理は常に中庸にありじゃあないの・・・・・・。
― ・・・・・・どうして「意図」の理解が強制されるんでしょうね?
* ミュージシャンが作品に唯一の「意図」を与えるからでしょ。音楽家の頭の中に正解が一つだけあるとすれば・・・・・・
― 正解はある・・・・・・んだけど、音楽家の頭の中じゃないってのはどうですか。
* ええと、どういうこと。
― 作品には、作者の「意図」を超えた「意味」がある、なんて。
* 君もよくわからんこと言うね。僕のせい?
― いや、だってそういう行き方しかないんじゃないでしょうか。「正解」が作者に独占されてるのがマズイわけですよ。作者の「意図」はそりゃあ作者のものでしょう。でも、作品にはもう作者の介入を認めないような、それでいてその全体をまとめるようなもの、つまり「意味」があるんだと。
* えーと、「作品」には、それをひとまとまりとみなせるための「意味」があると。その内容は?
― まだはっきりしませんけど、根本的には、この音楽は社会でどういう「意味」をもつか、どうはたらくか、てことじゃないでしょうか。ワーグナーの例なら、やっぱり、反ユダヤ主義を植えつけるのに役立つだろう、とか。ものを考えるときには、いつ、どこで、誰のために、が欠かせませんからね。
* で、それは作者のものではない。じゃあ誰のものなの?
― みんなのものでしょう。
* 民主主義で「正解」を決めるの? 多数決? でもそれも多数の専制になるだけで、同じことじゃない?
― うう。いや、みんなで正解つまり「意味」を求めて頑張ると。でもそれは特定できない・・・・・・あっ、わかったかも。要するに「意味」はカントの言う「物自体」なんですよ! あるけど認識できない。
* ・・・・・・きてるなー。・・・・・・そんなめんどくさい話、必要?
― わかりませんけど。でも、「作者の特権化」と「何でもあり」とを両方避けるには、ちょっと有効なんじゃないでしょうか。
* 成程、そうかもね。具体的にはどうなるの?
― 作者の「意図」はブラックボックスだったから神秘化されて守られてたんです。そこを開くためには、何か媒介がいるでしょう。それは・・・・・・
* ことば、しかないかな。
― そうですね! 聴くものとしては、「作品」の「意味」を考えるのはことばによるしかない。つくる方も、音をどう組み立てるか、ことばでその「意図」を考えながら音楽にする。で、その仕方はことばになってるんだから、ひろく誰の批判にも開かれているはずでしょう。
* でも、現代音楽のあの自作解説というやつ、あんなものなら役に立たないよ。やたら難解でさあ、かえって作者を神秘化してる。
― それは、その難解な「意図」が本当に大切なことか、コケオドシか、分析・批判するべきでしょう。もっとはっきりしてて適切な「意味」が見つかるかも。
* 君の説も批判にさらされなきゃね(笑)。
― あ、潰れました。いや、全くそうですね。
* で、「何でもあり」批判はまだ納得できないんだけど。
― 基本的にはいいんですけど。ただ僕らは本当に自律的に「好きだ」と判断しているのか、それこそレコード会社に踊らされてるだけじゃないか。ここは反省してもいいんじゃないでしょうかね。
* 成程ねえ。・・・・・・なんとなく、結論はこうじゃないかな。音楽を聴くことは、音楽の外、それは社会と呼んでいいと思うけど、それとの関わりを除いては考えられない、と。
― それから、音楽の外と関わるとすれば、どうしてもことばで考えることが欠かせないんだ、と。いやあどうです、音楽について作文する意義が証明されたじゃないですか!
* いやああ、ここまでしゃべるのにめちゃめちゃ疲れたよ。もう作文する気、うせた。
― まだまだ。ことばにする作業が残ってますよ。僕帰りますからできたら読ませてくださいね。
参考文献
高橋悠治『ことばをもって音をたちきれ』
『音楽のおしえ』
『たたかう音楽』
『ロベルト・シューマン』(以上、晶文社)
『水牛楽団のできるまで』(白水社)
エドワード・W・サイード『音楽のエラボレーション』(みすず書房)
細川周平『ウォークマンの修辞学』(朝日出版社)
ジョン・ケージ『音楽の零度』(朝日出版社)
後記
本エッセイは拙稿『〈聴くこと〉をめぐって』(セレンディピティ1号所収)の続編であり、論旨の重なる部分もあります。なお、セレンディピティ1号に所収の拙稿を改めて読む価値はほとんどありません。(ですが、拙稿以外の評論・小説は非常によいので一応お薦めしておきます)