さて、そうはいっても遅ればせながら八話目くらいから観始めたときにはさほど夢中になることはなかった。「肺に溜まったLCLは毎回どうやって抜いているのか?」「なぜオープニング主題歌に歌詞字幕が入っていないのか?」「林原めぐみはこの芸風を如何にして開拓したのか?」などということは人並に、あるいはオタク並みに気にはなったけれども、全体の印象としてはいかにもガイナックス風の濃い作風だなあと思うだけで、年末年始も忙しさにかまけて三話くらい録画し損ね観ることはなかった。
この見方が劇的に変わったのは年明けに第一〜十二話のビデオをS君に借りてからだ。始めて最初から通して一気に観たときにはとにかく衝撃だった。特に第五〜六話など観ていて完全に持っていかれ、次の日は一日中エヴァのこと(というか綾波レイさん(14)のことなのだが)を考えてぼーっとするしかなかった。そして、これはさすがにまずいと思って翌日にもう一度最初から見直し、ここでようやく自分を取り戻すことができたのだった。つまり、一度目は観ていてその演出にシビれながらも、もしかしておれは庵野節にすっかり翻弄されているんじゃないだろうか、と漠然と不安に駆られたりもしたのだが、二度目は庵野監督の魂胆見抜いたり、という思い込みが成立してしまったというわけだ。
エヴァというのは観ていて何か胸が締め付けられる思いがする、というか、これがまたほとんど甘美とさえいえる快感でもあるわけだが、この締め付け感がときになにがしかの不自由感、あるいは拘束感ともとれることがある。登場人物たちはどれも皆責任感が強く、良くいえば使命感、悪くいえば義理で行動している。強迫めいた緊張と弛緩に見舞われて破綻する傾向にあるその人格(この辺りの壊れ方がまた魅力なのだが)は、この責任感によって強く抑圧されていると考えてよいだろう。それにしても今の世の中、これだけ強いコードに縛られて行動する場面というのはそうあるものではない。むしろ、自己実現は定められた使命を全うすることにおいてのみ図られるというこの「残酷なテーゼ」は、今の私たちの社会では到底容認されないものではあるまいか。
おそらくは引用元の聖書が示唆しているような〈大きな物語〉において否応なく与えられた役割を十全に果たすこと、これこそがあなたの自己を実現する唯一の道なのだ、と迫られてみても、八十年代に暗黒の青春を送ったモラトリアム青年はあやふやに笑ってのらりくらりするばかり。もちろん庵野監督もこの大きな物語、特に近代科学技術の成功神話に相当懐疑的であることはまず間違いないのだが、にもかかわらずこの神話に異議を唱え乗り越えていくには、これを過激にかつ徹底的に肯定していくしかないという逆説、これこそが庵野監督のオプティミズムの心髄ではないのか? と、勝手に推測してみたりもするわけだが(注)、少なくともこういった確信を作品に定着させるのは相当にきつい作業だということはいえるだろう。ほとんど偏執狂のような執念がないと(優れた表現者は皆多かれ少なかれこの執念を持っているとも思うが)やっていられない作業だろうとさえ思う。練り込まれたシナリオと書き込まれたディティールは、この大きな物語を如何に解体し再構築するか、あるいは首尾一貫性とリアリティーを与えるかという点に細心の注意を払っているように見受けられる。
限りない分裂と拡散を繰り返した果てに一口にオタクといっても共有する言葉を徐々に失いつつある状況を見据え、その上で再び強力な求心力を発揮しようという野心的な試み、そしてこの難題に挑む際立った集中力こそが細分化されたジャンルの枠組みを超える共鳴を生むのは確かだ。しかし、それはあくまでも一オタクとしての自覚を徹底し、この立場を貫き通して一点にのみ突き進んで行くというストイックな姿勢から生じる類の共鳴であって、なにかしら観ていてどっと疲れてしまう。それでも毎週欠かさず観てしまう/観ねばなるまいと思ってしまうのであれば、この作品を正面から受けとめるには観る側も相当の覚悟と用心をすることが必要なようだ。
未完の物語についてはどうしても限られた視点から語るほかなく、また上の見方も切り口として到底十分とはいえないものであることは痛感している。さて、それでもこれだけはいっておきたいということを最後に一つ。・・・物語冒頭で宣言された結末を迎えるとき、私たちは暗黙の了解のうちに期待している「あの」感動の淵に容赦なく叩き落とされることになるだろう。そしてこれもまた輝かしい福音のうちに。
(注)
ここで筆者は物語や神話という言葉にかこつけて宗教と科学を混同していると思う方がいるかもしれない。しかし筆者は科学と宗教をあえて同じナラトロジー(物語学)のフレームで捉えることを好んでいる。詳しくは『科学の解釈学』(野家啓一/新曜社)を参照してください。