私が初めて松浦理英子を知ったのは、大学に入ったばかりの十八の頃であった。『仮面の告白』を読み終えたばかりの時、ふと雑誌の書評でみつけたのが『セバスチャン』。タイトルに魅かれて手にしたこの小説は、私に鮮烈な印象を与えた。生理的不快感を呼び起こすその描写と、鋭く研ぎ澄まされた台詞回しとから受ける刺戟が何とも快く、同じ感覚をもっと味わいたくて『ナチュラル・ウーマン』『葬儀の日』を続けざまに買った。
「セバスチャン」
「主人と奴隷」ごっこの「奴隷」役である麻希子の、「主人」背理に対する愛と、マゾヒスティックな少年工也との出会いから別れまでを描いた、作者の初の長編。
この生理的不快感はいったい何処から来るのか。それは彼女の描写には痛みの感覚を伴ったものがあまりにも多いからである。特に「血」。例えば「セバスチャン」の冒頭で、麻希子は明け方の出来事を思い出す。それは、寝ている間に知らないうちに舌の両端を噛んでいたということである。彼女は、そのまま気付かなかったなら出血多量で死んでいたかも、と思う。「いちばん長い午後」はのっけから出血シーンで始まる。血で真っ赤に染められた主人公容子のベッドのシーツ、この血はその女友達夕記子の経血である。白いシーツの鮮やかな赤を思い浮かべただけで、自分の内側に鈍い痛みが走り気が遠くなる。自分の血を見たときのような、軽い貧血の状態に襲われるのだ。
彼女達が血を流すとき、その疼くような痛みが私に転移する。何度も加えられる刺戟に対して順応作用が働き、疼痛が自分の体のものであるかのように感じられた頃、それは心地よい感覚となる。他人の痛みを自分の痛みとして受容することによって得られる快感は、まさにマゾヒスティックな快感かもしれない。
「ナチュラル・ウーマン」
三つの短編から成る連作長編。漫画家である容子の三人の女性との性愛を描く。
「いちばん長い午後」昔の恋人との再会と新たな恋の始まりの間で揺れる容子の、今の恋人夕記子との関係の終末。
「微熱休暇」容子が友情と性愛の入り混じった感情を向けている女友達由梨子と過ごす一夜の出来事を描く。
「ナチュラル・ウーマン」初めての恋人花世との甘美で暴力的な恋愛の始まりと終わり。
生理的不快感を生み出すのは痛みだけではない。カップの底のコーヒーの澱、盥に浸されたストッキング、太った女達の吐く煙草の煙。作品中で使われる小道具からは人間の体温が感じられる。それも生温かいものである。純粋に、不快な感覚をもたらすこれらの道具が、主人公達に生々しさを与えている。
松浦理英子の主人公達は皆、自意識が希薄である。生活感に乏しく、流れに身を任せるようにして生きている。彼女達が自らをアイデンティファイするのは、ある女性との関係によってのみである。二人の関係は主従関係に近いものとなる。それは、主人公達が相手の愛を求めながらも、パッシヴな形でしかそれを表せないからだ。相手に忠誠を誓う形でしかその愛は成り立たない。
彼女達の心に入り込もうとする男達もいる。彼らは、男であることを使って、つまり肉体関係によって、その愛を自分達に向けようとする。しかし彼女達は簡単に体を開くけれども、心を開くことは決してない。他の人間からどんな力を加えられようとも、この力は彼女達の表面で吸収され、中心部に届くことはない。
どんな時も彼女達は「主人」への愛を切札として心の中に隠し持っている。このカードが場に晒されることはない。何故なら、先にゲームを降りるのはいつだって相手の方だからである。自分が何者なのかを映し出す鏡を失った主人公がそれからどうなるのか、作品中で語られることはない。
「葬儀の日」
「泣き屋」を生業とする少女と、その半身とも言える「笑い屋」の少女が、精神的な一体感を求めてさまよう姿を描く。
「葬儀の日」に印象的なシーンがある。自分達の関係について問われた「泣き屋」と「笑い屋」の二人は、それを川の両岸に例える。二つの岸が互いの存在に気付いたとき、相手を無視してそのままあり続けることもできるし、土を切り崩して水を埋め、互いに近づくこともできる。しかし、その水を埋めつくしたとき、川はもはや川ではなくなり、そして自分達も岸ではなくなる。その時自分達は一体何者となるのか? そもそも川とは何なのか?
松浦理英子が書き表わそうとしているもの全てがこのシーンに集約されていると言えるだろう。
「乾く夏」(『葬儀の日』収録)
主人公幾子とその親友で鋭敏な感性を持つ彩子。そして彩子の元恋人悠志。夏休みに展開される三人の緊密で微妙な関係。
「肥満体恐怖症」(同右)
母親への嫌悪感から肥満体恐怖症になった唯子と、三人の太ったルームメイトとの精神的な駆け引き。
生身の、成熟した体に、輪郭の曖昧な「自」を宿す彼女達。私は今、彼女達の年齢になろうとしている。痛みの快感などは味付けにすぎず(但し、かなり濃い味付けではあるが)、素材の味はもっとずっと強烈で鮮烈なものであるということをわきまえるべき年齢である。三年前の読み方と、今の読み方とどちらがより松浦理英子を理解できるのだろう。素材を生のまま食べる。それがごく普通の在り方であることは間違いないのだろうが。