『映画秘宝VOL.2 悪趣味邦画劇場』(洋泉社)
84年のゴジラシリーズ復活の際に、東宝がゴジラを含む特撮映画のチラシ集を販売していたのを覚えている。その中に『ガス人間第1号』という映画のチラシも入っていたのだが、そのチラシにある暗鬱な印象が強烈だったため、昭和三十年代の日本映画とはそういうものだと思っていたことがあった。この本の中で述べられる映画は皆そんな香りを漂わせている。
石井輝男についての巻頭座談会に始まるパート1は、主に監督に焦点を合わせたエッセイで構成されている。鈴木則文、山口和彦といった名前があがる中、最も興味深いのがハヤブサ・ヒデトについての件である。筆者は全く知らなかったが、この人、日本では数少ない自作自演の人だという。冒険活劇のスターとして大都映画に在籍していた八年のうちに主演した映画は約七十本、1934年の出演作はなんと十四本に上る。脇役などではなくもちろんすべて主演しているのだが、監督兼任で製作に乗り出した翌年からも十本弱の映画を撮りつづけるのだから驚きだ。パート1ではこのほか、最後に大手六社のプログラムピクチャーの作家名鑑が付いている。
残り三分の二を占めるパート2ではジャンル別に説明されている。ジャンル別といっても新東宝エログロ、ズベ公ものといったように執筆者らの好み以外に分ける必然性は見当たらないのだが、いくつか作品を例に挙げながら触れてみよう。
まず、大日本帝国の闇の面を体現する憲兵とエログロの関係。憲兵、拷問とくれば、その強圧的イメージを劣情を刺激する方向に結び付けたくなるが、もちろんそういう映画は存在している。中でも『憲兵と幽霊』について、文中に当時の宣伝コピーが引用されているのでここでも引いておこう。「憲兵隊内を吹きまくる怪奇の嵐! 熱っぽい肉体が犯罪を招き、純愛が殺人を呼び寒気迫る」
また、篠原とおる原作映画についての項では梶芽衣子の「さそり」シリーズも取り上げられている。シリーズの第一作は観たことがあるが、シーツに巻かれた梶芽衣子がマグロのように転がされた挙句バージンブレイク、結果シーツに寝小便の染みのように広がる破瓜の血とか、憎んでいる刑事に襲いかかる際の包丁片手に片パイモロ出しの下着姿といった寒い映像を、梶の鬼気迫るキャラクターが吹き飛ばしている非常におもしろい映画だった。文中から第二、三作の熱気はそれ以上であることが窺えるから、テーマ曲『怨み節』の味わいも格別であろう。
ほかにも、売春、交通事故を防止するために撮られた啓蒙映画の恐怖や、「海女」&「尼」映画についてなど飽きることなく読めるだろう。もしこの本の中で観たい映画を選べと言われれば、筆者は池内淳子のペナルティー作品『花嫁吸血魔』か、疎開中事故のため流れついた南の島で宮様がひたすらエッチに励むという川島雄三の『グラマ島の誘惑』を挙げる。
と以上の文章のように悪趣味映画が簡単に受け入れられていることに、執筆者たちは複雑な感情を見せる。悪趣味が悪趣味でなくなること、すなわちメインであるべきものの不在が顕在化することはさして珍しい話でもないが、少なくともこの本の中だけでは悪趣味は悪趣味として扱おうと努力しているようだ。そう考えれば、悪趣味映画と小津、黒澤映画が同一線上に並ぶという言葉を冒頭でわざわざ述べていることも理解できる。
しかしただ傍流であったころの幸せな記憶に安住しているだけではない。映画製作者を多く含む執筆者たちは、七十を越えてなお新作を撮る石井輝男や岡本喜八の意気に感じ、十年以上撮る機会のない監督たちの境遇に憤る。省みられることのない膨大な作品群の記録以外にこの本で見るべきものは、彼らの言葉の裏にある、未来の「悪趣味」映画への緩やかな決意であるに違いない。
(筒井俊規)